みなさん、こんにちは。数あるページからこのサイトを覗き込んで頂いて、本当にありがとうございます!これからは「個の時代」と言われ、益々ひとり一人のパーソナリティーが求められます。

「何者なの?」って思う方が大半だと思いますので、自分史をお伝えします。ぱぱっと目を通して頂けると幸いです。そして絡んで頂けると嬉しいです!

チビた
よく来たな!
兄貴
こら!初めましての方にその挨拶は辞めなさい!

 

赤ちゃんの頃から2度の奇跡体験

1988年横浜で生まれました。生まれる前、そして生まれる時に2度の大切な体験がありました。

1つは、生まれる前。自分は2人の兄妹がいて、一番下の末っ子の3人目です。自分が生まれる前に、実は母親が2回流産をしていました。父親はそんな母親に対して「身体も心配だから、3人目は諦めようか。」と一度出産を止めようとしたと言います。ですが母が「もう一度だけ、頑張ってみたい」と、出産を諦めずに続けてくれました。そして、そのお陰で自分がこの世に生まれることができました。

2つ目は「おぎゃー」っと生まれる時に、へその緒が自分の首に2重に巻かれていて、奇跡的に生まれることができたんです。無理に引っ張っても首が締まるようだし、これは大きくなって親に聞いた話しで、超、親に感謝です。

妊婦の手を握っている看護師

幼少期はゼンマイおもちゃの子供

チビた
結構、先生から人気だったんだぞ
兄貴
幼少期からやかましい奴だったね

 

生まれてすぐの頃は「指先までお肉が詰まっている」「将来はお相撲さんだね」など周りにも言われて、顔も身体もパッツン、パッツンだったとのこと。

スーパーでも、レストランでも、気付いたら居なくなっていて、とにかく走り回っていたようで、「まるでゼンマイ仕掛けのおもちゃみたいだ」とよく言われました。変に正義感が強く、いじめっ子に立ち向かおうとするが、ボコボコにされることも。

小学校・中学校で夢が見つかる

とにかく身体を動かすことが大好きだった自分。母親は「スポーツをさせたい」と、小学校低学年になると、地域のサッカーチームの練習に応募してくれました。

見事にサッカーの面白さに魅了された自分は、ほぼ毎日学校の昼休み、学校終わりに友達とボールを蹴って日が落ちるまで公園で遊んでいました。泥がついた汚ったない服、靴下を毎日洗ってくれていた母親はすんごいです。感謝です。

小学校3年生になる頃から、1つ上の学年のサッカー大会に呼ばれるようになり、上達が目立ってきました。小学校4年生の頃に、母親のお友達のお母さんのお誘いで、Jリーグの下部組織である「横浜マリノス」のジュニアチームのセレクションに参加。

地域の数100人の中でも10数名のメンバーに合格することができて、小学3年間、そして中学3年間の6年間は横浜マリノスで「サッカー選手」という夢を追いかけていました。今振り返ればこのスポーツに没頭した6年間で、人間関係、努力の大切さ、礼儀礼節、物への感謝。これら人としての基礎を教えて頂いた時間となりました。

平日は練習、そして土日は試合の日々。週に4-5回サッカーに通い続けていましたが、頑張って勉強もしました(笑)

高校では夢を断念し「人生の目的」を失う

チビた
高校はいわゆる暗黒時代か!
兄貴
正直、辛かったな〜。頑張って乗り越えろよ!

 

中学3年間の内申点が功を奏して、法政大学第二高等学校に試験を受けずに進学。ここでもサッカーに没頭しようと決めて入りました。

しかし高校一年生の夏、今までの活動量に体が悲鳴をあげてしまいました。足の裏・股関節・膝など多くの怪我でサッカーを断念せざるを得なくなってしまいました。結局たった3ヶ月足らずで、サッカー部を退部して、暗黒の数年間が続きます。この後、原因不明の「頭痛」が急に発症しました。

急に、健康なはずの身体に原因不明の頭痛がのし掛かってきたのです。痛みを例えるなら「頭の奥に釘が刺さっているような鈍痛」が、朝起きて夜寝るまでじんわりと続くような日々でした。平熱は36.0度くらいの自分ですが、いつ体温計を測っても36度後半の微熱が毎日続きました。

原因が分からず、耳鼻咽喉・整体・脳、MRI、血液検査、CT検査等、複数の専門病院に足を運びましたが原因が特定できませんでした。どの先生が仰るのも「数値で異常は出ていないので、薬で様子を見てみましょう」という言葉でした。

原因が分からない状態が高校1年生の頃から2年ほど続きました。正直、自暴自棄になりました。夢であったサッカーを諦めて、原因不明の頭痛が発症し、生きる目的すら見失う、そんな毎日でした。この頃からストレスから親にも厳しく当たりました。高校の通学は続けていましたが、頭痛は外見から目には見えないもの。だから、人に痛みを共有できるわけでもなく、本音を隠して過ごした高校生活でした。

「なんで自分だけ・・」頭痛も一生付き合っていかなきゃいけないのかと、自分は諦めることもありました。

そんな閉じこもった自分でしたが、父親も母親も病気の事を諦めず、信じ続けてくれました。ある日、高校から帰ると、リビングで母親がうたた寝をしていました。その周りには沢山の用紙が散らばっていました。覗くと、色々な病院のホームページをプリントアウトした用紙でした。

原因が分からない病気の治癒を信じて、ここまで沢山情報を調べていてくれた事を知りました。そして、父親も多くの病院・治療方法の情報を届けてくれました。頭痛が続いて約2年。高校3年生の夏。父親が「沖縄に悠太の頭痛が治る治療院があるかもしれない。信じて行ってみよう。」と、決して有名ではないある治療院の情報を、持って帰ってきてくれました。

もちろん半信半疑でしたが、藁をも掴みたい気持ちで行くことを決心しました。それから数週間後、両親も一緒に沖縄に飛び立ちました。沖縄の空港に着いたその時、真っ青な空、気持ちの良い空気を思い切り吸って「何だかこの旅で頭痛が善くなるかもしれない..」と、心で思った事を今でも思い出します。

行ったのは、沖縄にある温熱療法を根底としている治療院でした。その治療院では、当時最新の血液検査を行って、全身を数値化してくれました。そこで気づいたことは「腸」の機能の数値が、圧倒的に悪かったことが判明しました。

その瞬間、本当に心がホッと…しました。原因が分からない事が何より嫌であったのですが、「やっと原因が分かった」と、真っ暗なトンネルから抜け出せた感覚でした。

それからの回復は早かったです。腸の機能低下が判明し、食事改善、そして温熱療法として身体を温める治療法を根底に、改めて身体と向き合いました。家でも身体を温められる、数十万円する温熱式のドームを父が購入をしてくれて、治療を続けました。すると不思議と、たった1ヶ月足らずで症状が緩和しました。頭痛がほとんど気にならなくなり、回復ができたのです。

今思えば、2年間の数々の治療費もバカにならない金額だったと思います。ここまで自分の治療を信じてくれた事、金銭面、精神面、生活における全てを支えてくれた両親に、感謝の気持ちが溢れてきました。

沖縄のモノレール

大学の後半で「自己成長」に火がつく

大学時代は、病気の反動からかまたアクティブな生活が続きました。バイトにサークルに、遊びに趣味に、様々な活動をしていました。大学2年次からは、学部で義務付けられていましたが「イギリスへの6ヶ月間の短期留学」にも行きました。ぶっちゃけ、大学の3年次までは生産性高く過ごせたかと言うと、そうではなかったかもしれません。

大学3年次の夏、就職活動がスタートしました。就活の初めの頃、ふと何気ない気持ちで参加した就活生向けのビジネスセミナー。そこで、めちゃくちゃ眩しいくらいキラキラと語る同年代の就活生に出会いました。

「なんだこれ…。全く自分より輝いているし、やりたい事も明確に語っている…」

正直、嫉妬感と、悔しさと入り混じった感情で会場を後にした事を覚えています。その時から「自己成長」のエネルギーにシフトしました。

それからは、サッカーの時の如く思い切り行動しまくりました。正直大学1〜2年の頃はサボっていたので。ネットで調べ尽くせるだけの、就活生向けセミナー・勉強・情報サイトに登録をして、大学と並行してスーツを着てセミナーに参加し続けました。自己成長そのものを楽しんでいました。

就活中に意気投合した同い年の親友と、学生団体を一緒に作り「経営者と学生を繋ぐ講演会・交流会」を企画しました。およそ1年間で約1000名が参加する会なりました。

また就活において、経営コンサルタントをしていた父に相談をしました。「良い会社選びのポイントはなに?」と父に聞いたところ、「良い会社かどうかは、良い経営者であるかだよ。経営者に直接会いに行って、会社を選べば良い。」とのふとした一言が印象的で、ネットで「社長登壇セミナー」を検索しまくりました。

数十回の講演会と、また名刺交換会などにも参加して、約6ヶ月の就活中に100社以上の経営者の方の話しを聞きに行きました。その中でも最も響いた経営者を決めて、社会人1社目となる、人材教育会社への入社を決めました。

その会社は人気企業ランキング100選にも選出をされている就活人気会社で、およそ2万人のエントリーの中から、7次面接を経て、30名に選ばれる、そんな世界でした。お陰様で、就活を突破して、およそ6ヶ月間の活動で会社を決めました。その会社は創業23年、社員数100名規模の、心理学を根底とした人材教育会社でした。

サラリーマン生活のスタート!そして独立

チビた
かなり負けん気の強い新入社員だったようだな!
兄貴
いま振り返るとそうかもしれないな〜!素直に愚直に真剣に、毎日仕事に没頭していたね!

 

大学4年次には、内定先の会社の研修を受けていて、すでに営業活動を体験していました。入社前の成果によって、入社時の給料やレンジも異なるという、研修スタイルを取っていて、素直にその研修に取り組みました。ここ、今では色々と斜めに考えるかもしれません(笑)

大学4年次の行動は自分でも半端なかったと思います。サッカーの時の負けず嫌いにまた火が付き、同世代、そして社内で1番取ってやろうっていうクッソ生意気にも、ガンガン行動しました。手帳に余白を作らないレベルで、社会人に会いに行きまくる企画を自分でスタートさせました。

・朝7:00からアポイント

・朝6:30〜の経営者勉強会に毎週参加

・1回3000円程度の名刺交換会に毎週参加

・約1年で2000名の方と名刺交換

・最大で1日7アポ

などの行動してました。お陰様で、その行動量が自然と研修の結果にも結びついて、入社時には10名のお客様がすでにいる状態で入社をスタートさせることができました。入社日から売上が経つというやつです。これから「内定者MVP」を獲得。もちろん全く欲求が収まらないので、その後、もっともっとやってやろうと思って行動を続けました。

入社後は、7:00出社から23:00帰社などの日も。同期は名刺などにテレアポをしている中、学生時に動いていた2000名の名刺交換をもとに、直接会いに行って営業活動を続けていました。入社6ヶ月後には、あるエンターテイメント業界トップの会社から、ご契約を頂くことができて、1日で74名の受注、約1400万円の売上を樹立する事が出来ました。これは会社の23年間の歴史の中で、3倍以上を上回る記録となりました。

1年目を終える頃には「新人賞」として会社で表彰をして頂きました。しかし、心のモヤモヤが段々と大きくなってくる自分がいるんです。「このままでいいんだろうか」「もっと成長したい」「もっとできるのではないか」と。

たった1年間の社会人経験でしたが、1度こう思ってしまうと自分を抑えられず、入社からちょうど1年後の4月に退職を決意しました。個人事業主として、会社の延長として「個人コーチング」「個人教育コンサルティング」を行おうと、活動をスタートさせました。

階段を登っているビジネスマン

個人事業主に突入!そんなに世間は甘くない・・

さて、いよいよだ。と独立をして意気込みました。自分の何となくの知識で、個人の自己成長を促せるカリキュラムを作って、営業をスタートさせました。お陰様で人脈はあったので、最初は何名かすぐにお客さんが見つかりました。

しかし、1年もするとお客さんの継続がなくなり、また新規営業も続けられず、いつの間にかお客さんはゼロに。独立して2年も経つと、貯金残高も数百円にまで落ち込み、一気に自分のエネルギーは縮小しました。超だっさい引きこもりニートみたいな状態にまでなりました。

「思い描いていた世界と全く違う。結果が出ない…。」

父親にも「やはり最低3年は会社にいて真剣に学んだ方が良かったのではないか..」と言われて、めちゃくちゃ悔しい思いをしました。その後、誤魔化しながらも何とか生きていましたが、同世代の仲間に会っても、恥ずかしくて合わす顔もないので、身動きが取れない期間もありました。自分の中で、無理くり再起も試みていましたが、文字通りの自転車操業が1-2年ほど続きました。

法人設立!Goole流のSEOで起死回生

チビた
人生はたった1人の人との出会いで変わる事があるね
兄貴
たまには良いこと言うじゃんか

 

人に会う活動は続けていました。実は大学時代に、書道家の武田双雲先生とご縁があり、先生のご紹介で当時社員数30名のアパレル経営者の方のご紹介を受けました。その方は、アパレル会社を手放されて、WEBマーケティング事業を思い切りされている方でした。アフィリエイト広告、物販事業で軽々と月数100万円を突破している方でした。しかも全く忙しそうにせずに。

自分は、営業畑だったので、まさかWEBの世界に…と思いましたが、久々にその経営者の方とお会いして、本気でWEBマーケティングを学んでみようと決意しました。コンサルティングなどはされていないようでしたが、お願いをして、お金も投資することを決めました。投資しないと本気にならないので、値段を付けてもらいました。

そこで学んだことが「SEO×マーケティング×アフィリエイト」でした。実はその方は、元々Googleを退職されて今は経営者をされていらっしゃる方から学んだノウハウを実践していて、結果を出している方で、自分もそのスキルを1年間で教えて頂きました。

MacBookのポートフォリオ

27〜29歳の時にメディア制作20サイト

チビた
体育会系バリバリの自分がまさかWEBの世界に
兄貴
思い切って方向転換出来た事で、いまがあるね!

 

Google流のSEOをがっつり実行していきました。医療・健康分野を中心に3ヶ月で1サイトのスピードでサイトを制作し、オウンドメディアマーケティング×アドセンスアフィリエイトを実践しました。

サイト制作後、インターネットで初めての収益は2ヶ月目。およそ40円でした(笑)6ヶ月間は、ほぼ収益にならずでしたが、そこから加速度的に爆発していって、1サイトで月間最大130万PV程度まで伸びました。サイト合計では331万PVにも到達し、29歳でアフィリエイトのみで月収220万円でした。またペット系サイトを「サイト売却メディア」に登録して、購入者を募ったところ、およそ1週間で210万円で売却ができました。

ですがその後、何とあのオウンドメディア事件によって、Googleの検索アルゴリズムがアップデートされて、見事に自分のサイトが検索圏外に。医療・健康サイトが大打撃を受けて、売上は一時期1/10に。震えますよ?200万円あったのが、たったの2日で一気に売上がダダ下がるこの恐怖(笑)。一旦、思考が停止して、現実を直視できませんでした。

一度、思いっきり落ち込みましたが、そうもしていられないので、選択肢を変えました。もう一度、違う視点でサイトを構築し直しました。そして貯金で、自分の集客力を教育ビジネスにするために、投資もして新しい教育ビジネスを立ち上げました。新メディア×教育ビジネスで、約半年で、また売上は落ち着いてきました。

「人とモノを広める専門」としてストーリーブランディングを

30歳の節目にして、人生を振り返りました。社会人になって、数千人、数万人の人と多くの人に出会ってきましたが、結局成功している人の共通点は「自分の価値を理解して社会還元できている」ということ。資産100億円以上の人にも会ってきました。「社会に求められていること×自分が飽きないこと」の絶妙なバランスでビジネスにしている人は、ズバ抜けていたことがよく分かりました。

自分は怪我で夢を失ったことも、原因不明の頭痛で人生に生きる目的を見失った時もありました。けれど、今思えばその時の全ての経験に意味が合ったとド本気で思っています。

「あなたはあなたが思うより、誰かの役にめちゃくちゃ立てる」というのが信念です。ストーリーそのものが、人生の商品の付加価値、武器になります。

会社員時代に学んだ、心理学・行動科学・営業、そしてGoogle流のWEBマーケティング、SEO。「教育×WEB」でひとり一人の物語を見える化して、世の中に価値を投下できる専門家になると決めて一歩を踏み出しています。誰でもその人にしかないストーリー、今までの全ての経験がとんでもない教材になる、そのことを形にする「ストーリー・ブランディング」の専門家として、コンサルティングをスタートさせています。

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